ゆったり歴史めぐりコース(若松)

若松エリアを満喫するコースです。上野ビルの3階にはレトロでおしゃれな「Asa Cafe」が、若松石炭会館の1階にはクロワッサン専門店の「三日月屋」が、旧古河鉱業若松ビルでは「丸屋」の天然酵母あんぱんが楽しめます。もちろん、料亭金鍋では自慢の懐石料理が堪能できますよ。

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上野ビル(旧三菱合資会社若松支店)本館、倉庫棟、旧分析室ほか)

 上野ビル(旧三菱合資株式会社若松支店)は若戸大橋を望む海岸通りに位置し、平成25(2013)年3月29日に登録有形文化財に登録された建造物です。三菱合資会社は、筑豊の炭鉱の買収と鉄道の整備をきっかけに会社事務所を若松に移転し、大正2(1913)年に本ビルを建設しました。設計者は三菱丸の内建築事務所の所長を経験した保岡勝也で、清水組によって施工されています。
 本館は鉱滓煉瓦による煉瓦造3階建の建物で、現在目にする建物は玄関部1階が増築されました。最上階部も改造されているため、補修が施されていない壁部分や窓廻りに当初のデザインが残っています。
 縦長窓を規則的に配置したシンプルで重厚な外観に対して、内部は中央が広い吹抜け。装飾付きの手摺やステンドグラスを用いた豪華な意匠が施されています。
 倉庫棟は煉瓦造2階建。切妻屋根の妻面に三菱の社標を掲げています。簡素ながらも堅牢な造りで、当時の煉瓦造倉庫の技術的水準が伺えます。また旧分析室は木造平屋建で、敷地内の煉瓦造の建築に合わせて大壁造とし、腰壁にスクラッチタイルが貼られています。
 古くから石炭の積出港として発展した若松は、明治20年代から始まった港湾と鉄道の整備により石炭販売や運送業が発展。港湾都市として飛躍的に成長しました。港の開発に伴い、岸壁に面して石炭・海運などに関係する企業の本社・支社、商社などが事務所を構えるようになり、一帯には多様な近代建築の街並みが形成されます。
 昭和44(1969)年に現在の所有者である上野海運株式会社が建物を取得しました。今も竣工当時の姿をとどめながら、1階は上野海運株式会社の事務所として使用され、2~3階にはカフェやデザイン事務所などがテナントとして入居しています。
 上野ビルは若松に現存する洋風建築の中でも、建築年代と設計者が明らかな事務所建築であり、石炭販売に関係した事務所、分析室、倉庫といった一連の機能を担った建築群が現存することから産業遺産としても重要です。
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旧古河鉱業若松ビル

 旧古河鉱業若松ビルは、大正8(1919)年に大林組によって建設された煉瓦造2階建の建物です。平成7(1995)年に日鉄鉱業(株)が、老朽化により解体を決めると、地元住民たちによる保存運動が始められました。これを受けて、北九州市は平成13(2001)年に保存活用を決定し、建物の補修と整備を実施。平成16(2004)年に「北九州市旧古河鉱業若松ビル」として一般に公開されました。
 建物は前面道路の形状に合わせて平面が鋭角となり、道路が交差する隅の部分に3階建の塔屋を配置。正面玄関を設け、外観は縦長の窓、均等に配された付柱で垂直線を強調しています。
 建物の腰廻り、2階床部分、軒廻りの装飾は華やか。特に、玄関の庇、塔屋入り口などの細部にはルネサンス様式の意匠が散りばめられ、華麗な外観を形作っています。建築当時の室内は1階に事務室や金庫室があり、2階に支店長室、会議室などがありました。
 外観を見ると、煉瓦の構造が著しい損傷を受けた形跡もなく、丁寧な工事がなされたことが伺えます。また、海面に近く、松杭が常時水面下にある構造自体が、損傷を守ってきたそうです。
 若松は、江戸期から年貢米や遠賀川流域からの石炭の積出港として栄えてきました。
 明治以降の石炭需要の増大と炭鉱の機械化、鉄道の開通、若松港の築港など近代化と共に日本有数の石炭集積地となり、洞海湾沿岸の地域や近くには石炭関連会社や海運会社、商社、銀行などが軒を連ねていました。
大正期や昭和初期になると新築や建替えも進み、若松南海岸など一部は現在までその景観を残しています。
 このビルは若松に現存する洋風建築の中で最も優れた意匠を有しています。この地域の歴史的景観において、当時の若松の繁栄を伝えているため、平成18(2006)年には北九州市都市景観賞、平成19(2007)年にBELCA賞を受賞しました。
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石炭会館

 若松石炭会館は明治38(1905)年に洞海湾沿いに建てられました。若松区内に現存する洋風建築としては最も古い建造物で、建築当初は若松石炭商同業組合の事務所でした。その後、昭和19(1944)年に社団法人若松石炭協会となり、昭和48(1973)年からは株式会社石炭会館として今も事務所に使用されています。
 明治政府のもと、明治5(1872)年に福岡藩の焚石仕組法が無くなり自由に採炭できるようになりました。藩政時代の焚石会所が廃止となったことで、石炭問屋も参加が自由となります。
 その結果、石炭関連の事業を始めようとする人々が急激に増えましたが、かえって行き過ぎた競争を引き起こし、価格や品質の混乱を招きます。そこで、明治8(1875)年に信頼と秩序を回復するため、石炭問屋組合が創設されたのです。
 明治18(1885)年には福岡県が同業組合準則を発布し、若松港同盟石炭問屋組合が組織されました。この時期には、組合員に山本周太郎、山本喜七郎など個人に加えて、三井物産会社、三菱鉱業会社、安川松本商店、古河鉱業会社の名前があり、中央や地元の有力な資本が入ってきていることがわかります。
 明治36(1903)年に西町地先の埋め立てが完了したあと、若松石炭商同業組合はそこに約300坪の土地を購入します。組長の安川敬一郎は副組長の山本周太郎を建築の委員長とし、明治38(1905)年に若松石炭商同業組合事務所が完成しました。
 建物の構造は木造2階建で、外装はモルタル塗。壁面には目地を入れ、石造り風の印象を受けます。
 様式建築の特徴をよく表していて、小さなポーチを持つ玄関が真ん中に位置する左右対称の形をしています。正方形の台座にのせたドリス式に仕立てられた対の円柱があることで、より対称に見えます。
 玄関の奥は通路となっていて、一番奥は階段室。それぞれの部屋はこの通路と階段室の周りに配置されています。窓の上部は平らなアーチ状になっていて、下部にはブラケット(持送り)付きの窓台があります。
 竣工当時の写真によると、屋根の勾配はもっときつく、棟には飾りがあり、パラペットが廻るなど、多彩な装飾が施されていました。残念ながら、竣工したときの外観とは変わってしまっています。内部も当時は豪華な造りとなっていて、会議室は組合員以外公私の会合にも利用され、石炭関係者の社交場、クラブ、迎賓館として公会堂のような役割も果たしました。
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料亭金鍋本館、表門

 若松は明治初期まで一漁村に過ぎませんでした。しかし、筑豊炭田の石炭開発が本格化するにつれて、石炭の積み出し港として発展。さらに、明治23(1890)年創業の若松築港会社による港湾整備、明治24(1891)年の筑豊興業鉄道の開通によって開発に拍車がかかり「石炭の町・若松」として全国に知られるようになります。当時、石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、若松は石炭景気に湧いて活気に満ちていました。経済の繁栄とともに、華やかな料亭や花柳界も栄えていきます。
 明治28(1895)年に創業した料亭金鍋は若松区(旧若松町)の中心街に位置。大正初期から現在に至るまで数多くあった若松の料亭の中でも著名な店のひとつです。明治時代に流行した「牛鍋」を九州でいち早く取り入れたことでも有名で、屋号にちなんだ金製の鍋をつくって牛鍋を出していました。その味わいは多くの経済人や文化人の心をつかんだそうです。初代の建物は被災したため、明治末から大正初めにかけて現在の本館が再築され、現在も料亭として使用されています。
 また、かつては隣に芝居小屋を併設していて、仕出しもしていました。芝居、仕出し、料亭という3要素を全て担う店として、隆盛を極めた若松の娯楽の中心的な存在であったことは間違いありません。昭和12(1937)年刊の「福岡県自治産業史」の中にも「料理店、みどり屋、金鍋、ときわ、萬安以下四十八戸……」とあり、業界の牽引役だったことがわかります。
 客を迎える表門には、両開きの板扉がつき、庇は銅板葺です。間口2mに角柱を立て、腕木などに丸太材を使用し、門の左右にはガラスの欄間をはめ込むなど、近代的な数奇屋風の意匠となっています。
 本館は、木造3階建の入母屋造妻入の形状を基本とした細長い建物です。外観は当初の壁部分が黒漆喰であったことから、全て黒でまとめられ、若松の風景の一部として親しまれてきました。
 内部は全体として洋風のデザインと和風のデザインが混在しています。黒を基調とした壁やコウモリをモチーフにした窓などに、料亭の華やかさと遊興の場としての官能的な部分が表現されています。
 本館の重厚な黒壁漆喰の外観と洒落た表門は当時の若松の繁栄を今に伝え、また失われつつあるこの地域の歴史的景観を維持する建物として貴重な存在です。

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