ゆったり歴史めぐりコース(下関)

下関南部町郵便局庁舎と隣接する旧秋田商会ビル、旧下関英国領事館を周り、少し先の日清講和記念館まで足を伸ばすコースです。日清講和記念館から少し行くと、壇ノ浦の戦いで入水し、幼くして亡くなった安徳天皇を祀る赤間神宮があります。夜のライトアップで鮮やかに照らされた神門も見どころです!

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下関南部町郵便局

 現存最古の郵便局舎として今なお現役で使われているのが下関南部町郵便局庁舎です。明治4(1871)年に赤間関(現下関市)西之端町に設置された赤間関郵便取扱所が明治16(1883)年に赤間関郵便局と改称。局舎を外浜町に移転しました。
 さらに明治21(1888)年には赤間関電信局を統合し、赤間関郵便電信局に改称。明治33(1900)年に現在地に移転したのが現在の建物です。1階では郵便、2階では電信の業務が行われていました。
 築100年以上経つ局舎は煉瓦造モルタル仕上げの2階建。日本人による本格的なルネサンス様式の庁舎建築で、延床面積は828平方メートルです。建物は明治30年代前半に日本人技術者が西洋建築の意匠を修得した技術的水準を示しています。設計は明治期後半の建築思想の論者でもあった三橋(みつはし)四郎。明治31(1898)年から約5年間逓信省技師を勤めた時に担当しました。
 明治初期の日本の建築界では、イギリス人のコンドルが日本人に指導していました。今で言う東京大学の教師になり、多くの日本人技術者に西洋建築を伝えたそうです。コンドルから直接指導を受けた世代を第一世代と呼んでいて、その一人が東京駅の設計で有名な辰野金吾でした。
 さらに辰野金吾から教えを受けた日本人を第二世代と呼び、第二世代の建築家・三橋四郎が南部町郵便局を建築。三橋四郎が修得したデザインを建物に反映させることができている作品です。
 ルネサンス様式らしく左右対称のコの字型で、少し前方に張り出した正面玄関の左右に柱頭飾りのついた角付柱が配されています。入り口はアーチ型で上部にはアーチのペディメント(出入り口や窓の上部に取り付けられた三角形の部分)が設けられました。
 1階はアーチ窓、2階はペディメントを持つ窓が整然と並び、穏やかな中にも整った様式美を形作っています。施工は福岡の岩崎組が担当しました。
 建物は平成13(2001)年には国の登録有形文化財建造物に登録。現在、建物1階の西側にカフェがあり、1階南西隅には建物に関する資料展示コーナーが設けられています。
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旧秋田商会ビル

 秋田寅之介により明治38(1905)年に設立された秋田商会は、日清・日露戦争時に大きく飛躍を遂げた総合商社です。国内や中国の満州、朝鮮、台湾など25カ所に支店・出張所を開設し、建築用の木材や食料などを運搬して莫大な資産を築きました。旧社屋が手狭になったため、大正4(1915)年に下関港に面した交通の要所に建てたのがこの秋田商会ビルです。
 鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階には建物の約3分の2を占める広い事務室と応接室、小室、階段室が設けられました。事務所が洋風の建築である一方、2・3階の住居には書院造が取り入れられていて、和洋折衷のユニークな造りが特徴です。
 なんといっても珍しいのは、屋上に茶室のような離れ座敷があること。建物の周囲には樹木を植え、今から100年以上も前に屋上庭園をつくっていたのです。また2・3階の書院造は重厚さがあり素晴らしく、3階は大広間が設けられています。
 さらに最新鋭の設備も随所に取り入れられました。和風のシャンデリアを自在に上げ下げできる装置、トイレや浴室の華やかなタイル、料理や荷物を運べる小型のエレベーター(ダムウエーター)などを見ると、秋田氏に“新しいもの好き”な一面があったことが伺えます。ダムウエーターは屋上まで届くように設置されているので、屋上から景色を見渡しながらたびたび宴会を開催していたようです。
 国内最初期の鉄筋コンクリート造事務所建築だと言われ、施工は大阪の駒井組が請け負いました。現場監督は秋田寅之介の親族でのちに関門商事に勤める新富直吉。設計者は西澤忠三郎が担当したと最近になって判明し、和風建築部分は京阪神で活躍していた宮大工の後藤柳作が手がけたと推測されています。
 西澤忠三郎は技手(技師の下に属する技術者)として文部省に雇われ、九州大学を建設していた事務所に所属していましたが、遼東半島につくられた関東州の関東都督府に移り大正期まで勤め、帰国しています。
 下関の歴史的建造物には建築デザインの移り変わりが如実に表れています。明治期の古典主義様式から脱却していこうとする大正時代の過渡期の建築。旧秋田商会ビルには明治期の様式建築が残りながら当時最新の意匠上の要素が見られ、変化しつつあるのがわかります。街歩きを楽しみながらデザインの変遷にもぜひ注目してください。
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旧下関英国領事館

 旧下関英国領事館は明治34(1901)年9月に赤間町に開設された、下関では初めての領事館です。開設当時は商店だった小さな日本家屋を仮の領事館として使用していたため、明治39(1906)年12月、現在地に建物を新築し移転しました。領事館として使用する目的で建設された建物の中では国内で最も古く、明治期の外交関連施設の一典型として平成11(1999)年に重要文化財に指定されています。
 領事館開設を本国に進言したのは駐日英国公使アーネスト・サトウです。本国への機密文書に門司港と下関港は海峡を挟んで実質ひとつの港湾であり、そのいずれかに領事を駐在させ、もう一方において貿易の保護を目的とする海事監督(shipping work)をする必要性があると記しました。通商の発展を考えたこの文書が関門地域への領事館設置を決定づけたと言われています。
 明治34(1901)年付けで初代下関英国領事にフランク・ウィリアム・ウォルター・プレイフェアが着任、海事監督官としてアンガス・マクドナルドが就任しました。山口、広島、福岡および大分県を所管し、オーストリア・ハンガリー国の領事事務を兼務していたそうです。
 また、英国領事館の開設をきっかけに、下関では戦前までに英国のほかオーストリア・ハンガリー、ノルウェー、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ポルトガル、オランダの7カ国が領事事務を執り行っています。海事監督官は門司と下関を行き来し、門司側では借り上げの事務所で仕事をしていました。大正12(1922)年以降は領事代理により事務作業が進められましたが、時局の悪化で昭和15(1940)年に業務を終えています。
 現存の領事館は、長崎英国領事館の設計にも携わった英国政府工務局上海事務所建築技師長のウィリアム・コーワンが設計しています。
 煉瓦造の2階建ての本館は1階が領事室、海事監督官室、待合室、書記官室が設置された執務空間。2階が海事監督官の住居として使われ、寝室2室、居間1室、浴室、物置、パントリーがあり、台所は使用人たちが使った附属屋に設けられました。当時は1階の執務室と2階は完全に区切られていて、1階と2階は直接行き来できない造りになっていました。
 建物がどのように使われていたかが明確に判明し、当時の領事館と附属屋の両方が残っているのは貴重で、明治期の外交関連施設の典型であるところが文化財として評価されています。また、敷地と外部を隔てる高い壁も、重要文化財に指定されました。
 設計者は、英国工務局上海事務所技師長のウィリアム・コーワンです。コーワンは、長崎の英国領事館も手がけています。
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日清講和記念館

 日清講和記念館は、明治28(1895)年春に下関でおこなわれた日清講和会議と、下関条約と呼ばれる講和条約の歴史的意義を後世に伝えるため、昭和12(1937)年6月、講和会議の舞台となった料亭春帆楼の隣接地に開館しました。館内では、講和会議で使用された調度品をはじめとして、伊藤博文や李鴻章の遺墨などを展示しています。
 日清戦争は、明治27(1894)年夏、朝鮮半島の権益をめぐって対立していた日本と清国の間で勃発しました。戦況は日本軍の圧倒的優勢に進み、同年11月頃から清国は講和を模索し始めます。
 1895(明治28)年3月19日、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡に停泊。翌日から下関の春帆楼で日清講和会議が開催されました。この会議には、日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章らが出席しました。会議は7回にわたっておこなわれ、4月17日に講和条約が調印されました。
 講和条約において、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・賠償金2億両の支払いなどを約束しました。なお、遼東半島は、同年4月のロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになります。

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