関門ぎゅぎゅっとコース

このコースは「時間はないけど関門の魅力はしっかり堪能したい!」という方にぴったりのコースです。まずは門司港駅から出発し門司港レトロ地区を散策したあと、船を使って下関側に渡ります。関門連絡船を使えば5分で移動できちゃうのでオススメです。下関南部郵便局ではフグの消印を押してもらえるので是非、旅の思い出を友人に知らせてみましょう。

1
門司港駅(旧門司駅)本屋

 明治24(1891)年に九州鉄道の起点駅として門司駅が開業しました。当時の門司駅は現在の門司港駅から約200メートル離れた場所に建てられていましたが、門司港地区の発展に伴って、大正3(1914)年に二代目の門司駅として現在の場所に移転新築されました。その後、昭和17(1942)年に門司港駅と改称して現在に至ります。
 明治21(1888)年に九州初の鉄道会社として誕生した九州鉄道会社は、当初から本州との連絡運転に重点を置いていました。そのため、門司駅を鉄道交通の拠点と定めて、本社も博多の仮社屋から門司へ移転することになったのです。
 明治40(1907)年7月になると九州鉄道は国営化。引き続き門司駅は九州の玄関口として発展し続けます。門司は九州鉄道管理局の本部として、さらには石炭や米をはじめとする物資の集散地として、その地位を揺るぎないものにしました。
 ところが、昭和17(1942)年4月に関門トンネルの完成に伴って「門司駅」の称号を旧大里駅に譲り、「門司港駅」へと名称変更することになります。さらに戦後になると、門司港駅は日本国有鉄道を経て、昭和62(1987)年4月に九州旅客鉄道の所有となりました。
 その後、本社機能が福岡市博多区へ移転するに従って、九州の鉄道の中心としての求心力を失いましたが、風格ある建物は門司港レトロ地区のシンボル的な存在になっています。
 2階建の駅舎は、ドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルの監修の下に建てられたもの。木造ながら外壁をモルタルで石貼り風に仕上げ、上には銅板葺きのマンサード屋根をのせることで、ネオ・ルネサンス調の重厚感のある外観デザインになっています。現存する駅舎としては、東京駅と並ぶ貴重な歴史的建造物で、昭和63(1988)年には鉄道の駅として全国で初めて国の重要文化財に指定されました。
 明治から昭和の初めにかけての鉄道は1等車、2等車、3等車に分かれていて、駅の待合室も異なりました。建物の1階エントランスを入った右手は旧3等の待合室。左手が旧1、2等の待合室でした。かつての待合室のあった場所には、マントルピース(暖炉)が残っています。2階には貴賓室と食堂があり、上流階級の社交場として賑わいました。
 その駅舎は今、老朽化のため全面的な保存修理工事が進められています。2019年までに大規模な改修工事を終え、新しく生まれ変わった姿を見せてくれる予定です。
2
門司郵船ビル(日本郵船門司支店)

 門司郵船ビルは、昭和2(1927)年に建設された鉄筋コンクリート造4階建の建物。大正3(1914)年に竣工したJR門司港駅(旧門司駅)の改札口を出ると、駅前広場越しに左右対称のファサード(建物の正面)が見えます。駅前広場を挟んで歴史ある2つの建物が対峙し、実に90年近くの間、門司港の歴史を見守ってきたことになります。
 門司港の街は、西の関門海峡と南から東と北に連なる山々に囲まれ、近代以降は、わずかにある平地部分が港湾として栄えました。明治20年代の門司港地区の全景写真では、磯と砂浜のあるのどかな漁村であったことがわかります。
 郵便汽船三菱会社が共同運輸会社と合併して「日本郵船」となった明治18(1885)年当時、門司港はまだ開港されていませんでしたが、「郵船寄港制度」で郵船に限り貨客の取り扱いができる港になっていました。明治22(1889)年に特別輸出港に指定されると、翌年には、はね橋から奥に「第一船だまり」が完成。石炭や飼料などの荷役に活躍した「はしけ」と呼ばれる小舟の停留場所として大いに賑わいを見せ、活況は昭和50(1975)年頃まで続きました。
 さらに明治24(1891)年には、現在の門司港駅よりやや山側に門司駅が開業。船と鉄道の結節点として金融関連会社や商船会社などが軒を連ね、急激に市街地が形成されました。門司郵船ビルは、海岸道路の西側通りとJR鉄道との2つの路線が交わる駅前地点に建ち、門司市内の重要な移動手段であった路面電車道路からもわかりやすい位置にあります。
 日本郵船はライバル会社の大阪商船に遅れること1年、明治25(1892)年に赤間関支店の出張所として初めて門司港に進出を果たしました。日清戦争後の門司港の繁栄とともに明治36(1903)年には門司支店に昇格し、代わりに下関支店が出張所に格下げされます。
 大正6(1917)年に大阪商船門司支店が新築開業したのに続いて、昭和2(1927)年に現在の門司郵船ビルが完成。この地域で最初のアメリカ式オフィスビルで、エレベーターや暖房器具(ラジエーター)、集約型の給湯室、水洗トイレなど、当時の最新設備を備えていました。
 また、デザインはアール・デコの影響を受け、合理的な平面を生かして経済的で実用性が高い様式。大陸をはじめ諸外国との交易で経済活動が活発だった門司港の繁栄を象徴しています。
 改修により現在はシンプルな外観になりましたが、玄関ホールのモザイクタイルや階段の手すり、照明などから、当時の面影が感じられます。
3
北九州市旧大阪商船

 明治17(1884)年に設立された海運会社・大阪商船の、門司支店として使われていたのがこの建物です。大阪商船は下関や博多、徳島、長崎、熊本、広島に支店を広げながら船での輸送を中心に業務を拡大。明治22(1889)年の門司港特別輸出港指定をきっかけに、明治24(1891)年に門司営業所を開設しました。明治30(1897)年には赤間関支店所属から独立して門司支店に昇格しています。
 大正6(1917)年に竣工した社屋は建物の角にある八角形の塔が特徴。当時門司で一番高い建物でランドマークのような存在でした。1階には待合室と税関の事務所があり、2階はほぼ仕切りがなくワンルームで利用されていた事務室。3階は電話交換室や便所、倉庫がありました。
 設計したのは、大阪の建築士の草分けと言われた河合幾次で、建物は正面と背面で異なる珍しい構造です。建物の西と北面の道路側は煉瓦型枠の鉄筋コンクリート造、木造モルタル仕上げ。塔屋のデザインはゼツェシオン様式でまとめられていて、塔にある2つの大きなアーチ窓とその上の八角形の塔屋の部分が特に印象的です。
 竣工当時は建物の前面道路のすぐ横に海があり、利用者は目の前の桟橋から横付けされた船に乗り込んでいたそうです。隣には旧門司水上警察、その隣に旧日本郵船門司支店が並んでいて、それら3つの近代建築は門司港の繁栄を象徴していました。
今は北九州市の所有物ですが、建設当初から同じ所有者が自社ビルとして使っていたという点も特徴です。
 当時の門司港は大陸航路の一大拠点でした。旧大阪商船のビルも日清戦争後に朝鮮や台湾、その後大連や中国大陸へ航路の拠点となり、昭和10(1935)年ごろに最盛期を迎えます。
 大阪商船は店員57人、揚げ荷40万トン、乗船客11万人、上陸客17万人を数え、揚げ荷量は日本で5番目を記録していました。また130隻の商船、53万トンの船舶も有していて、世界で第8位の海運会社でもありました。
 昭和39(1964)年に大阪商船と三井船舶が合併したことで、建物は「商船三井ビル」に呼び名が変わります。平成3(1991)年に北九州市が建物を取得し、平成6(1994)年に失われていた外壁の両端にあった装飾(ペディメント)、軒廻りのパラペット、屋根窓(ドーマー)、1階の外部通路などを復原しました。
 現在、1階はギャラリーやカフェとして、2階は貸ホールとして使用されています。    
4
旧門司三井倶楽部(本館、附属屋)

 旧門司三井倶楽部は、大正10(1921)年に三井物産株式会社門司支店が山手の新興住宅地、谷町に建設した接客施設です。建物は接客用の洋風の本館と、サービスのための設備を備えた和風の附属屋から構成されています。 本館は木造2階建で、中央の大きなスレート屋根に切妻の小さな屋根窓を設けています。外壁は瓦張りの下地の上に、1階は人造石洗い出し壁、2階や出窓の部分をハーフティンバーとし、ドイツ壁と呼ばれる表面が凹凸のモルタル掃付け壁が施されています。ドイツ壁は当時の流行であり、変化に富んだ外観を形作っています。
 本館1階はホールを中心に、食堂、応接室、客間が配置され、2階には居間や寝室や浴室があります。本館の背面に取り付いているサービス用の附属屋は、管理人などの住居として使用されていました。
 谷町にあった時、旧門司三井倶楽部のすぐ裏手には、三井物産門司支店長宅が配置されていました。昭和24(1949)年の財閥解体をきっかけに旧国鉄が買収。その後は「門鉄会館」と呼ばれる宿泊施設として利用されてきました。
 本館・附属屋とも戦前までの改造はほとんどなかったようです。戦後、本館の小屋裏に物置部屋を設け、昭和30年代に2階の寝室を宿泊施設にするために和室へ改造されました。また、屋根は石綿スレート葺へ葺き替えられ、外側の木部のペイントカラーの変更、内装材や照明器具の改変などが実施されています。改造の際には、附属屋の炊事場も拡張されました。
 さらに、平成2(1990)年には北九州市が建物を譲り受け、本館と附属屋をJR門司港駅前に移築しました。現在も旧所在地の近くに屋根窓の付いた大きな勾配屋根の旧三井物産社宅があり、かつての門司の経済力の大きさを伺うことができます。長らく不明だった設計者は、門司港駅前への移転に伴う解体調査で松田昌平であることが明らかになりました。移転修理に伴い、壁紙や絨毯の復原には可能な限りの努力が払われ、屋根も当初の天然スレート葺に復原されました。このような保存・復原の取り組みは緻密な調査の成果によるものです。旧門司三井倶楽部は国の重要文化財に指定されました。
 現在この建物は、レストラン、集会場、演奏会場など、市民の憩いの施設として再生・活用されています。そのため、空調設備や複数のトイレ、防火構造の厨房など、活用のための設備が設けられました。
5
下関駅の振鈴

 振鈴は明治時代後期に列車の発車を知らせるために使われていた大型のハンドベルです。JR下関駅でも開業当初から使用され、代々引き継がれています。
 振鈴はまず、発車の5分前に待合室で鳴らされ、1分前にはプラットホームで大きな音で鳴らされていました。大正元(1912)年頃から全国の駅には電気ベルが導入され、振鈴は次第に使用されなくなっていきました。実際に使用された手振りの振鈴で現存するものは当駅だけと言われています。貴重なものとして登録鉄道文化財に指定され、駅の駅長室に大切に飾られ保管されています。
 もともと明治34(1901)年に山陽鉄道が下関まで開通した際、現在よりも東の細江町に馬関駅が開業。翌年に下関駅に改称され、第2次世界大戦中の昭和17(1942)年に現在の竹崎町に移転しました。三角屋根の駅舎は本来、鉄筋4階建ての計画でしたが、戦時中ということもあり、木造2階建てに変更されました。
 老朽化で建て替えが計画されていた平成18(2006)年に、木造の下関駅舎が焼失する火災が発生。そのとき、駅長室の箱に保管してあった振鈴も焼け落ちてしまったと思われていました。
 数日後、がれきと灰が積もった駅長室の中から15センチくらいの丸い傘のようなものが発見されます。木製の握り棒は焼けてなくなっていたものの、これこそが振鈴だとわかり、その後は下関駅復興のシンボルになりました。
 現在は県内駅でトップの利用者数を誇る下関駅。その復興を祈念して実施した募金を活用して、平成27(2015)年3月、山口銀行が事務局を務める「下関の新たなる出発(たびだち)」推進協議会は、下関駅復興の記念に振鈴のレプリカを製作して下関駅の構内に展示することを発表しました。
 レプリカは平成27(2015)年3月22日に下関駅周辺で開催されたイベントで披露され、構内に併設したベンチと一緒に下関市へ寄贈。今では駅2階東西連絡通路に設置されています。
6
下関南部町郵便局庁舎(旧赤間関郵便電信局)

 現存最古の郵便局舎として今なお現役で使われているのが下関南部町郵便局庁舎です。明治4(1871)年に赤間関(現下関市)西之端町に設置された赤間関郵便取扱所が明治16(1883)年に赤間関郵便局と改称。局舎を外浜町に移転しました。
 さらに明治21(1888)年には赤間関電信局を統合し、赤間関郵便電信局に改称。明治33(1900)年に現在地に移転したのが現在の建物です。1階では郵便、2階では電信の業務が行われていました。
 築100年以上経つ局舎は煉瓦造モルタル仕上げの2階建。日本人による本格的なルネサンス様式の庁舎建築で、延床面積は828平方メートルです。建物は明治30年代前半に日本人技術者が西洋建築の意匠を修得した技術的水準を示しています。設計は明治期後半の建築思想の論者でもあった三橋(みつはし)四郎。明治31(1898)年から約5年間逓信省技師を勤めた時に担当しました。
 現存最古の郵便局舎として今なお現役で使われているのが下関南部町郵便局庁舎です。明治4(1871)年に赤間関(現下関市)西之端町に設置された赤間関郵便取扱所が明治16(1883)年に赤間関郵便局と改称。局舎を外浜町に移転しました。
 さらに明治21(1888)年には赤間関電信局を統合し、赤間関郵便電信局に改称。明治33(1900)年に現在地に移転したのが現在の建物です。1階では郵便、2階では電信の業務が行われていました。
 築100年以上経つ局舎は煉瓦造モルタル仕上げの2階建。日本人による本格的なルネサンス様式の庁舎建築で、延床面積は828平方メートルです。建物は明治30年代前半に日本人技術者が西洋建築の意匠を修得した技術的水準を示しています。設計は明治期後半の建築思想の論者でもあった三橋(みつはし)四郎。明治31(1898)年から約5年間逓信省技師を勤めた時に担当しました。
 明治初期の日本の建築界では、イギリス人のコンドルが日本人に指導していました。今で言う東京大学の教師になり、多くの日本人技術者に西洋建築を伝えたそうです。コンドルから直接指導を受けた世代を第一世代と呼んでいて、その一人が東京駅の設計で有名な辰野金吾でした。
 さらに辰野金吾から教えを受けた日本人を第二世代と呼び、第二世代の建築家・三橋四郎が南部町郵便局を建築。三橋四郎が修得したデザインを建物に反映させることができている作品です。
 ルネサンス様式らしく左右対称のコの字型で、少し前方に張り出した正面玄関の左右に柱頭飾りのついた角付柱が配されています。入り口はアーチ型で上部にはアーチのペディメント(出入り口や窓の上部に取り付けられた三角形の部分)が設けられました。
 1階はアーチ窓、2階はペディメントを持つ窓が整然と並び、穏やかな中にも整った様式美を形作っています。施工は福岡の岩崎組が担当しました。
 建物は平成13(2001)年には国の登録有形文化財建造物に登録。現在、建物1階の西側にカフェがあり、1階南西隅には建物に関する資料展示コーナーが設けられています。
7
旧秋田商会ビル

 秋田寅之介により明治38(1905)年に設立された秋田商会は、日清・日露戦争時に大きく飛躍を遂げた総合商社です。国内や中国の満州、朝鮮、台湾など25カ所に支店・出張所を開設し、建築用の木材や食料などを運搬して莫大な資産を築きました。旧社屋が手狭になったため、大正4(1915)年に下関港に面した交通の要所に建てたのがこの秋田商会ビルです。
 鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階には建物の約3分の2を占める広い事務室と応接室、小室、階段室が設けられました。事務所が洋風の建築である一方、2・3階の住居には書院造が取り入れられていて、和洋折衷のユニークな造りが特徴です。
 なんといっても珍しいのは、屋上に茶室のような離れ座敷があること。建物の周囲には樹木を植え、今から100年以上も前に屋上庭園をつくっていたのです。また2・3階の書院造は重厚さがあり素晴らしく、3階は大広間が設けられています。
 さらに最新鋭の設備も随所に取り入れられました。和風のシャンデリアを自在に上げ下げできる装置、トイレや浴室の華やかなタイル、料理や荷物を運べる小型のエレベーター(ダムウエーター)などを見ると、秋田氏に“新しいもの好き”な一面があったことが伺えます。ダムウエーターは屋上まで届くように設置されているので、屋上から景色を見渡しながらたびたび宴会を開催していたようです。
 国内最初期の鉄筋コンクリート造事務所建築だと言われ、施工は大阪の駒井組が請け負いました。現場監督は秋田寅之介の親族でのちに関門商事に勤める新富直吉。設計者は西澤忠三郎が担当したと最近になって判明し、和風建築部分は京阪神で活躍していた宮大工の後藤柳作が手がけたと推測されています。
 西澤忠三郎は技手(技師の下に属する技術者)として文部省に雇われ、九州大学を建設していた事務所に所属していましたが、遼東半島につくられた関東州の関東都督府に移り大正期まで勤め、帰国しています。
 下関の歴史的建造物には建築デザインの移り変わりが如実に表れています。明治期の古典主義様式から脱却していこうとする大正時代の過渡期の建築。旧秋田商会ビルには明治期の様式建築が残りながら当時最新の意匠上の要素が見られ、変化しつつあるのがわかります。街歩きを楽しみながらデザインの変遷にもぜひ注目してください。
8
旧下関英国領事館

 旧下関英国領事館は明治34(1901)年9月に赤間町に開設された、下関では初めての領事館です。開設当時は商店だった小さな日本家屋を仮の領事館として使用していたため、明治39(1906)年12月、現在地に建物を新築し移転しました。領事館として使用する目的で建設された建物の中では国内で最も古く、明治期の外交関連施設の一典型として平成11(1999)年に重要文化財に指定されています。
 領事館開設を本国に進言したのは駐日英国公使アーネスト・サトウです。本国への機密文書に門司港と下関港は海峡を挟んで実質ひとつの港湾であり、そのいずれかに領事を駐在させ、もう一方において貿易の保護を目的とする海事監督(shipping work)をする必要性があると記しました。通商の発展を考えたこの文書が関門地域への領事館設置を決定づけたと言われています。
 明治34(1901)年付けで初代下関英国領事にフランク・ウィリアム・ウォルター・プレイフェアが着任、海事監督官としてアンガス・マクドナルドが就任しました。山口、広島、福岡および大分県を所管し、オーストリア・ハンガリー国の領事事務を兼務していたそうです。
 また、英国領事館の開設をきっかけに、下関では戦前までに英国のほかオーストリア・ハンガリー、ノルウェー、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ポルトガル、オランダの7カ国が領事事務を執り行っています。海事監督官は門司と下関を行き来し、門司側では借り上げの事務所で仕事をしていました。大正12(1922)年以降は領事代理により事務作業が進められましたが、時局の悪化で昭和15(1940)年に業務を終えています。
 現存の領事館は、長崎英国領事館の設計にも携わった英国政府工務局上海事務所建築技師長のウィリアム・コーワンが設計しています。
 煉瓦造の2階建ての本館は1階が領事室、海事監督官室、待合室、書記官室が設置された執務空間。2階が海事監督官の住居として使われ、寝室2室、居間1室、浴室、物置、パントリーがあり、台所は使用人たちが使った附属屋に設けられました。当時は1階の執務室と2階は完全に区切られていて、1階と2階は直接行き来できない造りになっていました。
 建物がどのように使われていたかが明確に判明し、当時の領事館と附属屋の両方が残っているのは貴重で、明治期の外交関連施設の典型であるところが文化財として評価されています。また、敷地と外部を隔てる高い壁も、重要文化財に指定されました。
 設計者は、英国工務局上海事務所技師長のウィリアム・コーワンです。コーワンは、長崎の英国領事館も手がけています。

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